今本時の娑婆世界(しゃばせかい)は
三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。
仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず。
所化以(しょけもっ)て同体なり。
此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり。
(1 52歳 2 文永10年 3 佐渡一谷 4 712頁)
今 本時という絶対時間に開き顕わされた娑婆世界は、その根本の災いである火災・水災・風災を超克し、また成劫・住劫・壊劫・空劫という雄大な循環を超克した永遠の浄土なのである。久遠実成の教主釈尊は、もはや過去世において入滅したこともなく、将来の世にも生まれ変わることはない。(このように法華経を説く教主釈尊は絶対にして永遠の仏陀であり、)しかも教化を受ける者もその永遠の釈尊と一体なのである。――ということこそ、凡夫の自己の心に三千の法界を具えているということであり、国土世間・衆生世間・五蘊(ごおん)世間という三世間を具えているということである。
Saha ̄の音写。語源的には「忍ぶ」の意。忍土・堪忍土・忍界と漢訳する。この世界の衆生は内に種々の煩悩があり、外には風雨寒暑などがあって、苦悩を堪え忍ばねばならないから、この名称がある。この世界には三悪五趣が雑会するところから「雑会」とも訳されるが、その梵語はSadha ̄である。
法華経本門の如来寿量品第十六に説かれた法門で、釈尊が五百塵点劫という久遠の昔に成仏した三身具足の仏であると説き顕したこと。即ち爾前迹門の諸経では、釈尊はインドの仏陀伽耶の菩提樹下で初めて成道した始成正覚の仏とされるが、本門寿量品に来って「我れ実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と説かれ、実には五百億塵点劫の久遠の過去世に成仏し、それ以来常に裟婆世界にあって人々を教化してきたと、釈尊が自己を開迹顕本された。これを久遠実成といい、また久遠本仏・久成の仏・本門の釈尊・寿量品の仏ともいう。