善に付け悪に付け法華経をすつる、地獄の業(ごう)なるべし
本(もと)願(がん)を立つ。
日本国の位をゆずらん、法華経をすてて観経等(かんぎょうとう)について後生(ごしょう)をご(期)せよ。
父母の頸(くび)を刎(はね)ん、念仏申さずわ。なんどの種々の大難出来(しゅったい)すとも、
智者に我義(わがぎ)やぶられずば用いじとなり。其他(そのほか)の大難、風の前の塵(ちり)なるべし。
我れ日本の柱とならむ(ん)、
我れ日本の眼目(がんもく)とならむ(ん)、
我れ日本の大船(たいせん)とならむ(ん)、
等(とう)とちかいし願(がん)、やぶるべからず。
(1 51歳 2 文永9年 3 佐渡塚原 4 601頁)
善きにつけ悪しきにつけ、法華経を捨てるということは地獄に堕ちる行為である。日蓮は(若き日に、釈尊の誓願をうけついで)本来の誓願を立てた。だから、「日本国の国主の位を譲り与えよう、その代わりに法華経を捨てて観無量寿経によって後世の安楽を祈りなさい」と言われたとしても、「父母の首を刎ねてしまうぞ、もし念仏を称えなければ」などというさまざまな大きな法難が起こったとしても、智者によって日蓮の仏教信奉の確信を説破されることがなければ、決して屈服することはない。たとえそのほかの大きな困難が出現しても、それはあたかも風の前に舞う塵のようなものでしかない。日蓮は日本の柱としてこの日本国を背負って行こう、日蓮は日本の眼目となって精神の行く末を見守ろう、日蓮は日本の大船となって人々を安穏の世に渡そうと、若き日に清澄寺で立教の宣言をしたときに誓った三大誓願を破ることはない。