仏の永遠の生命を説いた「寿量品」の後にくるのがこの「分別功徳品」である。この「分別功徳品」の前半は、「従地涌出品」の後半とともに「寿量品」を中心として「一品二半(いっぽんにはん)」と云われ、日蓮聖人が特に重視し、「法華経」の中で最も重要な内容が説かれたものとした。それは仏とは何かがはっきりとわかり、その信仰にもとづいて、具体的な信仰生活の内容がこの「分別功徳品」の中で説かれているからである。
「寿量品」において仏の生命が不滅であることを知ったわれわれは、どのような信仰生活を送ったらよいか、どんな教えを実行したら仏と同じ永遠の生命を得ることができるか、それを説き明かすのが「分別功徳品」にほかならない。
仏の寿命とは、このように遍満するものであり、四菩薩を上首(じょうしゅ)とした無数の六万恒河沙(ろくまんごうがしゃ)の菩薩達はこの遍満する働きを顕わしていたのである。それは、四菩薩の意味する内容を見ても分ることである。この教えに出会うとき、人々は各人のもった種々なる才能によって、無量なる寿命を悟るであろう(一品二半終)。
この寿命無量なる教えを信解することは、一念でも無限の功徳を得るであろう。ましてや、この教説を理解し、広く他に説き、さらに深心に信解するならば、なおさらである(四信・ししん)。また、この教えを聞いて、随喜し、読誦し、説法し、加えて六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を行ずることあらば、その功徳は計り知れない(五品・ごほん)。
日蓮宗修養道場(石川道場)述
参考 上行菩薩 ―火徳
無辺行菩薩―風徳
浄行菩薩 ―水徳
安立行菩薩―地徳
①「無生法忍(むしょうぼうにん)」
仏は弥勒菩薩(みろくぼさつ)に対して、仏の寿命の永遠不滅を信じる者の功徳をお説きになる。その功徳の第一は、「無生法忍」を得ることである。仏の生命が不滅であることがわかると、生死の世界を超えようとする意志が生まれる。永遠の仏に自分は生かされているのだと信じることによって、この世の生死、変化の世界に執着していることから離れようとする気持ちになれる。この短い人生の喜怒哀楽など、永遠の生命からみれば、まったく取るに足らないことになる。こう考えれば、生死や人生の変化に捉われない心が生じる。これが「無生法忍」である。
②「聞持陀羅尼門(もんじだらにもん)」
次に「聞持陀羅尼門」を得ることができる。「陀羅尼」とは善を行い、悪を止める力のことで「総持(そうじ)」と訳す。仏の永遠の生命を信じることは、自分の永遠の生命を信じることにもなる。それによって、現在の自分は過去の業(ごう)の結果としてあることがよくわかり、因縁によってこの生を受けて現在の自分が存在していることに、無限の感謝を持つことができるようになる。さらに永遠の未来を考えると、現在のこの人生がどんなに大切であり、重要であるかがわかってくる。
③「楽説無礙弁才(ぎょうせつめげべんざい)」
次に、たくさんの菩薩が「楽説無礙弁才」を得ると説かれる。楽(ぎょう)というのは楽しむことではなく「ねがう」ことである。無礙(むげ)というのは障りのないことである。「楽説無礙弁才」とは自由自在に妨げなく教えを説くことをねがうことである。無礙に説くことができる条件とは、それは永遠の生命である仏を信じ、その仏に生かされている自分をしっかりと確信していなければならない。
④「旋陀羅尼(せんだらに)」
次には、数えきれないほどの菩薩が無量の「旋陀羅尼」という功徳を得ることができた。陀羅尼とは善を行い悪を止める力であるが、これに「旋」という字がつく。旋とはめぐらすことで、この陀羅尼の力を自分だけで享受しないで、この教えを人から人へ説きめぐらしてゆくことが「旋陀羅尼」である。
⑤「能く不退(ふたい)の法輪(ほうりん)を転ず」
さらに数限りない菩薩が、車の輪が無限に回ってゆくように、不退の決意で教えを無限に弘めることができるようになる。
⑥「能く清浄(しょうじょう)の法輪を転ず」
不退の法輪を説くことができるようになった菩薩は、次に清浄の法輪を転ずることができる。清浄とは何一つ報酬を求めないで教えを弘めることである。清浄の法輪は菩薩でなければ絶対に実行しえない。逆に清浄な法輪を説くことができるようになったとき、人は菩薩となるのである。
仏の寿命が永遠であることを深く信ずれば、仏が常に霊鷲山(りょうじゅせん)にあって菩薩や声聞たちに囲まれて説法している姿を見ることができる。仏の寿命の永遠を信ずれば、仏がこの現在においても、この場所で説法しているということが本当にわかるようになる。仏が常在説法していることがわかれば、この自分も常に仏とともにあるという自覚を持つことができる。仏とともにあるという自覚こそ、人間としてもっとも大きな喜びであり、それこそが宗教的生活を成りたたしめることができる。これを深信解の相と呼ぶ。
「在世の四信」とは仏がこの世におられる時、仏の教えをじかに聞いて信ずる信じ方を、浅い信仰から深い信仰の順番に四つにわたって説いたものである。
① 一念信解(いちねんしんげ)
「法華経」のなかの一句でも一語でも少しでも理解でき、信じられるようになること。
② 略解言趣(りゃくげごんしゅ)
ほぼその言趣(仏のお説きになる意味)が理解できてくること。お経の全体の趣旨がだんだん理解できるようになることである。
③ 広為他説(こういたせつ)
広く他人の為に説くことである。自分がある程度わかってきたならば、その喜びを他人に分かち与えることが大切である。
④ 深信観成(じんしんかんじょう)
深く信じて、正しい見方、考え方が完成する事である。ちょっとぐらい経文を読んでもなかなか深くはわからない。何度も何度も読み返し、自分の信心と年齢が深まるにつれて、しだいにお経に対する見方が定まってくるものである。このお経に対する考え方がしっかりしてくるのが「観成」である。
仏のおられない末世には、遺された経典によって修行するしかない。その方法を説いたのが「末後の五品」である。
① 初随喜(しょずいき)
お経を読んでいると深い喜びを感じてくることである。
② 読誦(どくじゅ)
ただ一心にお経を読むことである。自己の全存在をお経に帰入(きにゅう)させて読むのが真の読誦である。
③ 説法(せっぽう)
教えを人に対して説くことである。単に口先だけで説くのではない。信心の喜びにあふれた顔で説き、全身で説き、行いで説く。
④ 兼行六度(けんぎょうろくど)
布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の教えを、できるだけ努力して一つでも行えるように努めることである。
⑤ 正行六度(しょうぎょうろくど)
兼行六度をしだいに実行し深めてゆけば、いかなる時、いかなる場所においても、この六つの修行を行うことができるようになることである。
鎌田茂雄著「法華経を読む」より
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