五百の阿羅漢(あらかん)の衣裏宝珠(えりほうじゅ)の喩えによる領解(りょうげ)の後、阿難尊者(あなんそんじゃ)と羅睺羅尊者(らごらそんじゃ)の二人がお釈迦様から成仏の予言を受ける授記(じゅき)を請うところから、この授学無学人記品は始まる。
阿難尊者はお釈迦様55歳の時からご入滅される80歳までの25年間、侍者を勤めた。お釈迦様が仏陀になられた日に誕生し、それを祝してアーナンダ(梵語で歓喜という意味)と名付けられた。お釈迦様とは従兄弟の関係にあり、十大弟子の中の多聞第一(たもんだいいち)の仏弟子と称せられた。ここで、未来に山海慧自在通王如来(せんかいえじざいつうおうにょらい)に成るであろうと授記される。
羅睺羅尊者はお釈迦様が出家される前、釈迦族の王子であられた時の子である。父親であるお釈迦様との再会の折に、お釈迦様のご指示により出家し、舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)から直接に指導を受けた。初めは仏の子であることに慢心して、来客に仏は不在であると嘘をつくなどしていたが、お釈迦様に叱責されて後は一念発起し、比丘(びく)としての戒(かい)を誰よりも細かく守る密行第一(みつぎょうだいいち)の仏弟子となった。羅睺羅は未来に踏七寶華如来(とうしっぽうけにょらい)に成るであろうと告げられた。
続いて学・無学の声聞の弟子2,000人も仏前に進み出て、黙して授記を請うた。学とは有学ともいい、見惑(肉体を中心とする唯物的な見方)を断じて四諦(苦・集・滅・道)の真理を悟っているものの、未だ思惑(わがままな感情や欲望)の残っている者。これに対し、無学とは見惑思惑を共に断じ尽くして、阿羅漢の位に達している者である。お釈迦様はこれらの学無学の声聞の仏弟子2,000人にみな同じく宝相如来の記別を与えた。
新発意の菩薩とは悟りを求める発心をして間もない菩薩をいうが、彼らにすれば先輩の大菩薩でもこのような記別を得ることを聞いたことがないのに、声聞である阿難尊者が特別に記別を授かるのを目の当たりにして心に疑いを懐いた。菩薩達の疑念を知られたお釈迦様は、阿難尊者の過去世の本地(ほんじ)を説かれたのである。
「我阿難等と空王仏の所に於いて、同時に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の心を発しき。阿難は常に多聞をねがい、我は常に勤め精進す。この故に我はすでに阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。しかるに阿難は我が法を護持し、また将来の諸仏の法蔵を護って、諸の菩薩衆を教化し成就せん。その本願かくの如し。故にこの記を獲(う)」~経文より~
このように久しく菩薩としての行を積んでいるからこそ、いま成仏の記が授けられたということである。
法定妙意鈔・上巻参照
釈尊の入滅後、教団の長老たちは釈尊が様々な人に示された教えをまとめ「仏説」として確定するため結集(けつじゅう)を行った。最初の結集は釈尊の入滅後、王舎城の七葉窟で500人の仏弟子が集まり「第一結集」と呼ばれる。この時、戒律をまとめる責任者は「持律第一」のウパーリ(優婆離)とすることが異議なく決められたが、経典をまとめる責任者を誰にするかが問題となった。釈尊の教えをもっとも多く聞いていたのは、最期まで釈尊に仕えたアーナンダである。だが、彼はまだ阿羅漢の悟りを開いていなかった。
悟っていなくてもよいではないかという意見もあったが、釈尊亡きあとの厳格な指導者マハーカッサパ(大迦葉)は、それを許さなかった。アーナンダは釈尊の教えを自分自身のものとして捉えなおし、心を集中して修行した結果、明朝結集が開かれるという夜、頭を枕につけようとした瞬間に、智慧の眼を開いた。
このようにして悟りに達したアーナンダは、翌朝晴ればれとした顔をして結集の場に出席し、経典をまとめあげる責任者として、「このように私は聞いた(如是我聞)」と、多くの経典を涌出したのであった。
釈尊がシッダルタ太子としてカピラ城の王宮にいたころ、悟りを求めて出家しようと決心して散歩から帰ってくると、父スッドーダナ王の使いが王子の誕生を伝えた。それを聞いた太子は「ラーフラができた」と呟いたという。
ラーフラとは「束縛」を意味する語とされ、出家しようと決意した太子に愛の絆ができてしまったという事を示したのである。使いの者も父王も、太子のこのような心の中を知らず、それをそのまま王子の名としてしまったのである。
ブッダとその弟子89の物語より