前章の「分別功徳品第十七」では教えを他人に弘める功徳を総論的に説いたので、これから続いて「随喜功徳品」「法師功徳品」と、『法華経』の教えを弘める功徳が詳しく説かれてゆく。
「随喜功徳品」では初随喜(しょずいき)の功徳をくわしく説く。教えを聞いて心から喜ぶことがいかに大切であるか説き示すのが「随喜功徳品」である。
仏寿長遠無量(ぶつじゅじょうおんむりょう)なる如く、如来の滅後においても、法華経を聞いて随喜し、演説するものの功徳は、五十展転(ごじゅうてんでん)示教利喜(じきょうりき)しても不変なることを述べる。いわゆる、仏寿不変なるがゆえに、持経者(じきょうしゃ)の心身の相までも仏と成ってゆくことを示す。
日蓮宗修養道場(石川道場)述
法華経の教えの底流にあるのは、人は小さな自分の利益だけで生きてはいけない、いつでも他人のために尽くす、そういう生き方をしなければいけないということである。そして、そのような境地にいたるための最初にあるものは何かというと、それは初随喜である。
前章において四信五品の教えを聴聞した弥勒菩薩は、釈尊に向かって、如来滅後にこの法華経を聞いてよく随喜するものがあるとしたならば、その功徳はどれほどであろうかとたずねた。これに対し釈尊はこう答えられた。
もし人が法華経を聞いて喜んで、これを他の人に伝える。他の人はまた随喜して次の人に伝える。こうして次から次へと伝え、五十人目の人が聞いて喜んだとする。その喜びの功徳というのは、八十年にわたって金銀財宝を多くの人々に与えていた人の功徳よりも大きく、さらにその人々に人生の無常を説いて阿羅漢の悟りを得させた事よりも大きいと言うのである。
長者の限りない物質的な布施よりも、法華経の教えによって人を導くことの方が大事なことなのだ。また、自分だけの救いを求めるのでなく、みんなの幸福を願うのでなければだめなのだ、というところに法華経の大乗仏教としての立場が示されている。
初随喜というのは、法華経の教えをすなおに喜んで受け入れたにすぎない、いわば初心者ということ。それにもかかわらず、その得るところの功徳というものは、かの長者が一生をかけて実践した布施の功徳よりも、あるいはきびしい修行の果てに到達した悟り(解脱)に何倍にもまさるという。
つまり、法華経の教えを聞いて随喜しただけの初心者といえども、そのまま真っ直ぐに進みさえすれば、それは必ず仏と成る道に踏み入れたことになるけれども、それにひきかえ、いかに厳しい修行をして、高い位の解脱をしようとも、それが自分一人の救いに終始しているかぎり、大勢の人々の幸福を祈る立場、すなわち、大乗仏教の立場には及ばないということを、ここでははっきりと言っているのである。
田中日淳猊下講述「法華経講話・下」より
〒697-0026 島根県浜田市田町18-1 日蓮宗 陽光山 龍泉寺
Copyright (c) 2008 RYUJUKAI.All Rights Reserved.
このサイトで使用している画像・文章の一切の転載を禁じます。