第一の本尊(龍泉寺の本尊)

   日蓮聖人が弘安4年5月15日に顕わされた大曼陀羅の写真
   日蓮聖人が弘安4年5月15日に顕わされた大曼陀羅の写真

日蓮聖人が『観心本尊抄』に

「一閻浮提 第一の本尊 この国の中に立つべし」

とご書顕され『諸法実相抄』にも

「一閻浮提 第一の本尊 を信じさせ給え」

と念押しされている

 

この大曼陀羅の右下には日蓮聖人の御手により目的・主旨が讃文として以下の様に書かれている。

 

如来滅後於閻浮提内未曾有第一之 

大曼陀羅本門寿量佛

本尊也

 

(如来の滅後 閻浮提の内に未曾有第一の

大曼陀羅本門寿量佛の

本尊なり)

 

 日蓮大聖人は本尊として紙もしくは絹地に筆によって大曼荼羅を開顕された。文永10年(1273)流罪の地である佐渡にて始めて十界互具の大曼荼羅を顕されてより、ご入滅の弘安5年(1282)までに125幅程の御真筆の大曼荼羅が現存もしくは発見されている。時代が下り安置や荘厳など様々な要因により紙墨の大曼荼羅の造像化がなされ現在に至っている。

 

 島根県浜田市にある陽光山龍泉寺の御本尊は中興第15世本寿院日性上人(1804~1841)により再建された本堂に勧請されたと思われる。一塔両尊と祖師像を中心に15体の仏像による御本尊となった。明治5年(1872)にマグニチュード7.1(震度7)の浜田地震がこの地を襲った。発生した津波は1メートルであったが、近辺の寺社や民家は倒壊と火災により跡形も無くなったが、龍泉寺の本堂と御本尊は残ったのである。

 

 昭和56年(1981)宗祖700遠忌報恩事業として第25世本覚院日圭上人により現在の2階建て鉄筋コンクリート造りの本堂が建築され、旧本堂の御宝前や柱を使った荘厳な本堂が再建されたのである。その御本尊は日蓮宗総本山、身延山久遠寺本堂と同じ15体の仏像を勧請した形式が踏襲されていた。

 

 平成2年に第25世が遷化され3年後の平成5年に第26世となる笹部一眞(旧姓名 刀禰眞一 現住職)が入寺した。7年後の平成12年(2000)に造像の本尊の後方の空いたスペースに感応により大曼荼羅を配置することを考え、仏縁により大日本国衛護の曼荼羅(奉献本尊)を、当時の総代新田喜久氏の浄財寄進により勧請したのである。この大曼荼羅は弘安4年(1281)の5月15日、2回目の元寇である弘安の役の一週間前に絹布に染筆された「第一の本尊」を基に造られている。日蓮大聖人が「第一の本尊也」としたためられた大曼荼羅は、大正元年(1912)10月に京都燈明寺の三重塔から出現し大正4年(1915)に日蓮宗宗宝となった。そしてこの大曼荼羅の写しを紺地金泥に表装し、日蓮宗管長小泉日慈猊下(当時)が宮内庁を通じて皇室に献上したのである。

 

 つまり龍泉寺に勧請された大曼荼羅御本尊は奉献本尊の写真を加工したものと考えられるのである。そして令和2年(2020)7月、魔訶不思議な仏縁に依って小住一眞の許へ「第一の本尊御眞筆」謹写の御本尊が久遠ご本佛より届けられ、現在龍泉寺本堂の御宝前中央に燦然と鎮座されている。

 

 日蓮大聖人により授けられた南無妙法蓮華経のお題目による三大秘法を実践する時「本門の本尊」の勧請は如何なるべきかは多くの教団が本尊に迷い、未だ明確な答えが顕かでないのが現状であるが、必ずご本佛より現証としてのお示しがあると信じている。

 

〒697-0026 島根県浜田市田町18-1 日蓮宗 陽光山 龍泉寺
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