宗祖である日蓮聖人は流罪の地である佐渡で、法華経信仰の根本となる十界互具の大曼荼羅本尊を開顕された。それが文永10年7月8日に染筆された「佐渡始顕本尊」である。然るに日蓮宗において第一とされるべき御本尊は摩訶不思議なことに、明治8年(1875)の身延山久遠寺の火災で焼失しているのである。写真の御本尊は身延山第21世日乾上人の写本である。かろうじてその内容を後世の門下は知ることが出来る。
そして、宗祖ご降誕800年の聖晨に「佐渡始顕本尊」を染筆された聖地である佐渡本山妙照寺が何故か全焼喪失してしまったのである。この二つの出来事に何も感じない方が不思議ではなかろうか。
この「佐渡始顕本尊」は十界の総てに南無が付く総帰命の曼荼羅と呼ばれる。つまり日蓮聖人の悟り(観門)の曼荼羅である。明治時代に国柱会を興した田中智學居士は、これに対し仏・菩薩・縁覚・声聞の四聖にのみ南無の付く成仏の為の曼荼羅「教門の始顕本尊」を日蓮聖人は同時に書いたはずであるとして、身延から出開帳で流出した曼荼羅の写しを国柱会の本尊としたが、此れも写本であり真筆は確認されていない。
日蓮聖人は佐渡にて「観心本尊抄」を書かれ観門の大曼荼羅を開顕した後、それから晩年に至るまで後世に残すべき教門の大曼荼羅御本尊の構想を積まれたのではないかと推察するのである。今まで百二十数幅の大曼荼羅が御真筆として存在するが、同一の座配はない。目的や授与の対象によって異なるのは当然であるが、明治時代の終わりまでは先師は大聖人の真意を諮りかねたのは仕方のない事であった。
大切な視点として、始顕にて仏部に釈迦多宝と一緒に十方分身、善徳等の迹仏が書かれていたが、弘安以降の曼荼羅には無く、殆どの先師は曼荼羅を書く時にこれを踏襲している。法華経に於いて見宝塔品にしても神力品にしても十方分身三世諸仏は欠くべからざるものであるが、何故弘安以降に日蓮聖人は迹仏を省略したのか明確な論証は無い。山川智應博士は大曼荼羅を造像化するのに迹仏は無理だからとの論を立てているがこれにはどうも無理がある。大聖人が造像化を望んだとは思えない。
また、日蓮聖人は何をなされるにもその日の暦を重視されたが、多くの曼荼羅の日付が「弘安何年 何月〇日」という具合に空白にされている。此の事に誰も気付かないのか敢えて無視しているのか問題にされていない。日蓮宗で推奨する「臨滅度時本尊」も弘安3年3月と日付けは空白である。本尊に関する様々な論文を読んでもなんら結論は出てこない。今後の研究に託すという結びが殆どである。明治時代の終わりまでは、それも致し方ないことである。
大正元年、京都燈明寺の三重塔から出現したのが、日蓮大聖人が全身全霊を込めて顕された「第一の本尊」なのである。何故六老僧や弟子檀越に秘してこの出現の時を定めたのか。それは人類が写真印刷の技術を発明し「大牟尼世尊分身の諸仏刷り形木たる本尊なり」のお言葉通りに頒布できる時代を待たれたのである。もはや先んじて「観門の始顕本尊」は廃せられ、この度全焼した聖地妙照寺の焼け跡には「第一の本尊」だけを奉安した三大秘法のお題目の道場が創建されるべきであると考える次第である。合掌