三日 菩提心を発(おこ)す

松野殿御返事にいわく

 魚の子は多けれども魚となるは少なく、

 

 菴羅樹(あんらじゅ)の花は多く咲けども菓(み)になるは少なし。

 

 人も又かくのごとし。

 

 菩提心を発(おこ)す人は多けれども退せずして実(まこと)の道に入(い)る者は少なし。

 

 すべて凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物なり。

 

 鎧を著(き)たる兵者(つわもの)は多けれども、戦に恐れをなさざるは少なきがごとし。

 

(1 55歳 2 建治2年 3 身延 4 1269頁)

菩提心 「日蓮宗事典」抜粋より

 梵語bodhi-cittaの訳で無上菩提心・無上道意・阿耨多羅三藐三菩提心とも訳す。略して道心・道意・覚意ともいう。仏果を得ようとして仏道を行ずる心。『大智度論』第四一には「菩薩初めて発心し、無上道を縁じて我当に作仏すべしと。是れを菩提心と名づく」と説かれている。菩提心を起すことを発菩提心、あるいは発心と称する。日蓮聖人は『開目抄』に「今度強盛の菩提心ををこして退転せじと願しぬ」(定五五七頁)と法華経弘通の覚悟を述べられている。聖人の出家の動機には諸宗の乱立や承久の変等の社会的事象と聖人自身の主知的な無常感などが指摘されているが、その基本には人間としての真の生き方に対する問いかけがあったと思われる。それが成仏の実現、仏種を植えることへの志向となるのは当然の帰結であったと考えられる。