「囑」とは委託すること、まかせること、頼むことである。「累」はわずらいをかける、面倒をかけることである。「囑累」とはめんどうをかけるが教えを弘めてくれ、という意味である。さらにいえば、どんな迫害を受けても苦しみにあっても、この『法華経』の教えを弘めてくれということになる。
前品に続き、釈尊は、法座よりたって再び大神力を現じ、この得難い阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の法を霊山会上(りょうぜんえじょう)のすべての人々に付属した。この光景は、諸々の菩薩をして「世尊の勅(ちょく)の如く當に具(つぶさ)に奉行(ぶぎょう)すべし」という誓いをさせたのである。即ち、前の神力品が本化(ほんげ)の弟子(でし)上行(じょうぎょう)等の菩薩に付属されたことに対し、本囑累品は霊山会上の四衆すべてに付属されたことになる。古来より、前者を末世未来記(まっせみらいき)としての別付属(べっぷぞく)と言い、後者を在世(ざいせ)の総付属(そうふぞく)と呼んできた。
日蓮宗修養道場(石川道場)述
そのとき、釈迦牟尼如来はそれまで説法されていた座からすっとお立ちになり、すばらしい神通力を発揮なさいました。まず右手の本数を数かぎりなく増やしたうえで、その無数の右手で、無数の菩薩たちの頭頂をお撫でになりながら、こうおっしゃったのです。
「わたしは、過去世において、十の五十九乗(阿僧祇)劫の百千万億倍もの長きにわたり、ほんとうに得がたいこのうえなく正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を求めて修行し、ついに成就しました。
いままさに、このうえなく正しい悟りを、あなたがたにゆだねることとしましょう。ですから、あなたがたは全身全霊をもって、この教えをひろめ、あまねくいきわたるようにつとめなければなりません」
このようにして、世にも尊きお方はその右手で三回も、菩薩たちの頭頂を撫でながら、こうおっしゃいました。
「わたしは、過去世において、十の五十九乗(阿僧祇)劫の百千万億倍もの長きにわたり、ほんとうに得がたいこのうえなく正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を求めて修行し、ついに成就しました。
いままさに、このうえなく正しい悟りを、あなたがたにゆだねることとしましょう。ですから、あなたがたはこの法華経をいちずに信じ、読み、記憶し、だれかれとなくこの教えを説法して、生きとし生けるものすべてがこの法華経を聞き、理解するように、つとめなさい。
なぜなら、如来は大いなる慈悲をもち、物惜しみせず、こだわりもなく、また恐れの心もなく、ただひたすらブッダの智恵を、如来の智恵を、仏教そのものというべき智恵(自然智恵・じねんちえ)を、生きとし生けるものすべてにあたえることだけを願っているからです。
如来という存在は、生きとし生けるものすべてにとって、偉大な施主に他なりません。ですから、あなたがたは、如来のなさったとおりに、学ばなければなりません。
物惜しみしてはなりません。未来世において、もし如来の智恵を信じようとする善男善女があらわれたならば、その人々が如来の智恵を得られるように、この法華経を説き聞かせてあげなさい。もし、受けいれようとしない人々があらわれた場合は、この法華経以外の如来の深遠(しんえん)な教えを説いて、その人々に利益をあたえ、喜ばせてあげなさい。そうすれば、あなたがたは如来から受けた恩に報いることになるのです」
このように、釈迦牟尼如来がお説きになったのを聞き終えて、そこにつどっていた菩薩たちは、身も心も喜びに満ちあふれました。ますます釈迦牟尼如来にたいする尊敬を増し、身をかがめ、頭を低くし、合掌しながら、声をそろえて、こう申し上げました。
「なにからなにまで、世にも尊きお方のおっしゃったとおり、実行いたしましょう。ですから、世にも尊きお方におかれましては、お心をわずらわせることなきよう、お願い申し上げます」
菩薩たちはこの言葉をつごう三回、声をそろえて申し上げました。
「なにからなにまで、世にも尊きお方のおっしゃったとおり、実行いたしましょう。ですから、世にも尊きお方におかれましては、お心をわずらわせることなきよう、お願い申し上げます
なにからなにまで、世にも尊きお方のおっしゃったとおり、実行いたしましょう。ですから、世にも尊きお方におかれましては、お心をわずらわせることなきよう、お願い申し上げます」
すると、釈迦牟尼如来は、全宇宙からおいでになっていたご自身の分身の如来たちを、おのおのの仏国土へ帰らせようと、こうおっしゃいました。
「ここにお集まりの如来たちに申し上げる。どうぞ心安らかにお過ごしください。多宝如来がおられる塔を、もとどおりの場所に安置してください」
釈迦牟尼如来がこうおっしゃったのを聞いて、全宇宙からおいでになって、宝樹のもとにしつらえられた獅子座のうえに坐っておられた無数の如来たちも、多宝如来も、上行菩薩をはじめとする無量にして無数の菩薩たちも、舎利弗をはじめとする声聞たちも、出家僧も尼僧も男女の在家修行者たちも、この世にありとしある神々も、人間も、阿修羅なども、みなそろって歓喜に打ち震えたのでした。
現代日本語訳 「法華経」正木晃先生著 春秋社より
仏が大勢の菩薩の頭を手で撫でたことは、仏が菩薩たち一人一人を心から信頼していたことになる。この信頼できる菩薩に対して仏は「囑累」したことになる。最高の悟りは、簡単に得られるものではない。釈尊が悟りを開くのにも長い苦行があって、それをふみこえて真理を悟ったのであるから、最高の悟りは簡単に得られるものではない。それをなんのこだわりもなく菩薩たちを信頼して与えようというのであるから、釈尊の偉大さがいちだんとわかる。さらに、この教えを一心に弘めよ、しかもどんな人にもすぐれた利益(りやく)を与えよ、というのであるから、頭を撫でられた菩薩は深い感激に包まれたにちがいない。
①仏の智慧
仏の智慧は世の中の悩み苦しんでいる人々を救うはたらきをする。仏の智慧が明らかで清らかになれば、それは世の中の暗闇を照らし出し、一切の闇を除きさるという。仏の智慧とはまさしく光明のことである。われわれ衆生の煩悩を除き、苦しみから救ってくれるものである。
②如来(にょらい)の智慧
仏の悟られた絶対の真理のことである。真如(しんにょ)であると言ってもよい。真如も法界(ほっかい)も法性(ほっしょう)も、すべてこれ如来なのである。如来の智慧とは真如を知ることであり、永遠の生命を知ることである。
③自然(じねん)の智慧
自然の智慧というのは、本来、人々がもっている仏性のことである。この本来もっている仏性が花開いたのが自然の智慧である。この自然の智慧も、ただ修行もしないでほったらかしにしておいたのでは、自然の智慧として花開くことはなく、潜在的にあるといわれる仏性になってしまう。仏性の力は修行により、師と善友の縁により大きく育つ。これが自然の智慧にほかならない。
この三つの智慧を人々に施すことができる仏は、「如来はこれ一切衆生の大施主なり」と言われるのである。
たくさんの菩薩たちは仏の言葉を聞いて、みな大いなる喜びに包まれた。命がけで教えを弘めよと言われて、たいへん喜んだ菩薩たちの体にはその喜びが満ち溢れた。菩薩たちは仏の前でその実行を約束したのであった。しかも同じ約束を三度声を出してくり返して言ったのであった。末世の世の中になっても力を合わせて教えを弘めるから、決してご心配には及びませんと言ったのである。
この菩薩たちの立派な返事を聞いた仏は、これならば末法の世の中になっても教えが弘まることはまちがいないと確信をもった。そこで十方から霊鷲山に集まってきていた分身(ふんじん)の仏を、それぞれの国に帰り、多宝仏の塔も元どおりの場所に戻るようにと言われたのであった。
インド王舎城の霊鷲山の山頂で始まった法華経の説法は、見宝塔品で大地から出現した多宝如来の塔が虚空にあがり、仏の神通力によって諸々の大衆もみな虚空におかれたので虚空会の説法となった。そしていま、囑累品が終わり虚空会から地上にもどることから二処三会といわれる。
『法華経』の教えを聴くために仏の分身や菩薩や声聞や、ありとあらゆる人たちや、天、人、阿修羅(あしゅら)までもが、霊鷲山に集まってきたが、どんな人でも仏に成れるということを聴かされて大いなる喜びをもったのである。
このような真理がわかったことで『法華経』の序品からの一大ドラマは囑累品で結ばれるが、この後『法華経』の教えによって人々を救った菩薩たちの実際のはたらきとして「薬王菩薩本事品」以下の諸品が説かれることとなる。
引用文献 「法華経を読む」鎌田茂雄先生著 講談社学術文庫