法華経を学ぶ

妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)法師品(ほっしほん)第十


ブッダと菩薩の像
ブッダと菩薩の像

 この法師品では薬王菩薩(やくおうぼさつ)に語りかけるかたちで法師の心得が述べられている。法師とは仏の教えを世に弘める人であり、出家者(しゅっけしゃ)とか在家者(ざいけしゃ)などの区別はない。

 

 一般的には法師というと出家した僧侶(そうりょ)の事であるが、ここでは「法華経」を弘める人すべてが法師である。お釈迦様は「法華経」を弘める者をののしる者があれば、その罪は仏をののしるよりも重いと説きになっている。それは「法華経」が諸経の中で第一のお経であるからである。

法師品の大意


 如来(にょらい)の滅後(めつご)にこの法華経を説くものはすべて菩薩(ぼさつ)である。であるから、如来と同等に供養(くよう)すべき、如来の使いである。なぜなら、法華経を説くもの、聞くもの、随喜(ずいき)する者は、過去に種々の供養をなしたる者にて、苦悩する人を愍(あわれむ)ゆえに人間として生まれたものであるからである。

 

 いいかえれば、人々の苦しみ、自分の身のまわりの苦しみをあえて受け、「法華経」を示す人々なのである。その苦しみは、如来がおられる時以上に多い。だから、大慈悲心(だいじひしん)という如来の室(しつ)に入り、柔和忍辱心(にゅうわにんにくしん)という如来の衣を着、一切法空(いっさいほうくう)という如来の座に坐して法を持(たも)つことが必要である。

 

日蓮宗修養道場(石川道場)述

 

一偈一句(いちげいっく)の功徳(くどく)


法華経方便品偈文「我始坐道場」
法華経方便品偈文「我始坐道場」

 「薬王よ、この大衆の中には多くの天上界のもの、人間界のもの、空や海に住んでいるもの、男女の出家者や在家者や、さまざまな悟りを求める求道者(ぐどうしゃ)がいるがこれらの中で法華経の一偈でも一句でも聞いて、一瞬の間でも本当にありがたいと思う者がいれば、私はその者たちに成仏の記別(きべつ)を授けよう。その人はきっと仏の悟りを得ることができよう」とお釈迦様は告げられた。

 

 そして仏滅後(ぶつめつご)の末世に於いても成仏の保証が得られると説かれるのである。

五種法師(ごしゅほっし)


 「法華経」を弘めるための大切な五つの行(ぎょう)、これを五種法師という。五つの行とは「法華経」を受持(じゅじ)すること、読むこと、誦(じゅ)すること、解説(げせつ)すること、書写することである。古来、受持を正行(しょうぎょう)といい、読・誦・解説・書写を助行という。

 

 正行である受持とは、深く「法華経」を信じて、その教えをたもちつづけて実践することである。助行の読とは、「法華経」を見ながら自分で読むことである。あるいは他人が読むのを聞くのでもよい。誦とは、経文を見ないでそらんじることである。口先だけでなく心の中で反復しながら読むことである。解説とは、人に向かって教えを説明することである。人に教えを説くことによって、自分自身も本当に深い意味がわかるようになる。書写とは、経典を写すことである。これは教えを弘めるためにもなり、自分自身の信心を深めるためにもなる。

 

 助行の読・誦・解説・書写は正行である受持を助けるためのものである。ただ経文を読んだり、説明したり、写したりしてもそれは何の意味も持たない。五種法師というのは、根本に「法華経」に対する信心を持ち、深め、弘めていくことである。

 

菩提樹下に集う仏教徒
菩提樹下に集う仏教徒

如来の使い


 経文は「法華経」の一句を説くものは如来の使いであるという。この仏の使いは「如来の事」を代理として行うのである。「如来の事」とは一切衆生を救おうという仏の仕事である。「法華経」の一句を説く人は、仏の代理として、仏のなさることを実行する人である。

三力と仏の加護(かご)


大塔の如来像
大塔の如来像

 末世において「法華経」を信じ、これを弘める人には、大信力(だいしんりき)、志願力(しがんりき)、諸善根力(しょぜんごんりき)がそなわっていなければならない。

 

 大信力とは「法華経」の教えが絶対の真理であることを確信し、この教えは永遠不滅であることを信じることである。大信力がそなわれば、この教えを他人に教えようとする力が生まれる。この力を志願力という。一切衆生を救おうと願うことが志願力である。

 

 さらに諸善根力が必要となる。あらゆる善をなす根本の力がそれである。善をなす根本は諸法の実相を知ることである。あらゆるものの本当のすがたを知ることによって、その存在の意義をさとる。この大信力、志願力、諸善根力をそなえることによって、どのような困難にも不惜身命(ふしゃくしんみょう)の活動が出来る。

 

 このような人は「如来と共に宿するなり」と言われる。仏様と一緒にいるということである。そして、仏は御手(みて)でその頭(こうべ)をおなでになるのである。頭をなでるというのは絶対に信任されたことを意味する。仏とともにあり、仏を信じて任されるという自信によって、本当の布教が可能となる。

 

高原穿鑿(こうげんせんしゃく)の喩え


 この経には、高原で井戸を掘って水が得られる譬喩(ひゆ)が説かれる。この譬喩は懈怠(けたい)の心が生じることをきびしく戒めるために説かれたものである。高原で井戸を掘って水を得ようとするのは容易なことではない。

 

 初めは乾いた土が出てくるだけで、いくら掘っても水は出ない。しかし、決して失望することなく、さらに掘り進んでゆけば、しだいに湿り気のある土がふえてくる。さらに努力して掘ってゆけば泥が出てくる。泥が出れば水が近い。必ず清冽(せいれつ)な水が得られるはずである。

 

 泥土は菩薩道、清冽な水は仏に喩えられる。菩薩の道である泥土まで行けば、必ず最後は仏に成れる。信仰の問題もこれと同じで、少しばかり信心して効果がないからといって止めてしまえば、仏の道は得られない。それでは駄目であって、一つの井戸をどこまでも掘り続けることが大切である。

 

弘教の三軌(さんき)                         如来の室・如来の衣・如来の座


 「法華経」を説くには、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に坐して説けとあります。

 

 第一の「如来の室」とは「一切衆生の中の大慈悲心是なり」とあるように、一切衆生の心の真っ只中に入ってゆける大慈悲心をもつことである。身近なことで言えば、まわりの人を愛しなさいということである。

 

 第二の如来の衣を着るとは、「柔和忍辱(にゅうはにんにく)の心これなり」と説明される。どんなことに遭遇しても、どんなひどい目にあっても、どんなにののしられても、決してくじけず怒らない心が如来の衣を着るということである。あなたに対するつらい仕打ちを赦しなさいということである。

 

 第三の「如来の座」とは一切のものを平等に見る心である。経文では「一切法空(いっさいほうくう)是なり」とある。人間は頭の良い人もいれば、悪い人もいる。体の健康な人もいれば、病気がちの人もいる。人はそれぞれみな違った個性を持っているとみるのが、差別(しゃべつ)の見方である。それはそれとして認めながら、仏の眼から見れば平等な人間として見える。すべてみな仏性をそなえ、修行に励めば仏になれる人であり、平等なのである。このように見ることが「一切法空」の見方である。それは、とらわれているちっぽけな自分を忘れなさいということである。

 

「法華経を読む」鎌田茂雄著参照