九州の法華経のお寺の三男に生まれ、父親に眞一と命名されたにも拘らず、兄のお寺を継ぐ意志表明を良いことに、大学は一浪して某国立大学を目指すも11点足らずに不合格。先に合格していた私立大学の内、都内のカトリック系の大学の経済学部に入学した。マルクス経済学というよりも体育会少林寺拳法部が主な学生生活となり4年間の学生拳士ではあるが三段まで昇段した事は後にインドで精神的支えとなった。
父は三男である私の進学や就職に一言も口を挟まなかった。就職は当時「花のファッション業界」を目指し、東証一部年商950億、従業員1000人の会社の東京本店に決まり独身寮に入った。配属された本店営業一部販売2課は、取引先が新宿・立川・松戸・浦和の伊勢丹(様)で主に新宿本店の担当となり販売2課4人の年間予算は2億円であった。月の残業が100時間を超えることもあったが、花の東京での20代はそれなりに充実していた。
大学の仲間や会社の同僚が結婚をし、思えばたくさんの披露宴に招待された。上司や先輩の背中を見ながら自分のあるべき将来の姿を描けぬまま5年が過ぎ、ようやく本来やりたかった商品課に配置転換となった。そこは若者向けのプレタポルテの着物ブランド「夢工房」と「葡萄の間」を扱い、原宿で「コムサブランド」を手掛けていた。課長とデザイナーの女性二人と産地に出向いたり、インド綿を取り寄せたりして商品開発も試みたが、どちらかというとアルバイトの女性と返品された在庫整理に追われることが多かった。
中学生2年の時、研究発表の授業でバラモン教の「梵我一如」というテーマがあり、お寺の子供ということで発表の役が回ってきた。父に尋ねたり百科事典を調べたりして責任を果たしたが、それがきっかけでインドに興味を抱いた。いつかは行ってみたいが自分にとってはいつまでも遠い国であった。そんな行動力の欠如した男が20代の後半に従姉の勧めで、原宿で開催されているI.B.D.という自己啓発セミナーに参加した。リアライゼーションというプログラムに参加するために平日に2日間会社の有休を取り、7万円の参加費を払い集まった50人程の様々な職業の20代の参加者に対し、セミナーの主催者は「今から24時間、皆さんは全くの自由です。1人でも、2人でも、グループでもいいので計画を立てて、明日の正午までにここに戻り、何をして何を感じたか発表して下さい」と言い放ったのである。
羽田と福岡の往復航空券を買い、ここ数年していなかった実家への帰省を思い立ち、夜帰ってきて朝戻る息子に対し両親は何も理由を聞かなかったが何を感じたであろうか。ただ、羽田を離陸するときに飛行機の座席で初めてインドに行ってみようと思った。するとアルバイトで採用していた同年代の瞳の澄んだ女性がインド一人旅をしたとのこと。アドバイスを貰いセミナーで知り合ったJALのCAさんにチケットを頼み、1986年の12月29日から1月2日までの5日間の冬休み、自分で手配してデリー・アグラ・ジャイプールというゴールデントライアングルの旅を実現したのである。
サラリーマン生活7年目の4月、再び営業部への配置転換を受けた時に心が決まった。その年の9月一杯で6年半務めた会社を退職し10月で満30歳となった私は、その月の24日に成田よりデリーに向かって、何かを求め3か月間インド大陸一周の旅に出たのである。
※写真は11月末に仏蹟参拝旅行に参加した母と合流し、サルナートで日蓮宗の日月山初転法輪寺を建設するために奮闘されていた佐々木鳳定上人と面会した時。